駅彼―あと9時間、きみに会えない―
くらゆいあゆ


 家の周辺まで戻ったあたしは、自転車を降りてそれを押しながら、今朝、確認したより、もうちょっと広い範囲の植え込みの中を覗き始めた。 
「あのう、すみません」
「え?」
 いきなりあたしの背後で男の子の声がしたから、びっくりして振り向いた。
「えーと……」
 そこには瞬と同じ青葉西高校の制服を着た、すごく顔のきれいな男の子が立っていた。
「なにか?」
「あのー、猫探してる人ですよね? 昨日とかすごいミルクミルクーって夜、声がしてて」
「そうですけど」
 男の子はあたしの自転車の前カゴに入っているミルクの巨大写真つきポスターを、横目で所在なさげに確認していた。
「ミルクって猫、それですよね?」
 ポスターを指さす。
「そうです」
「その猫、今うちにいます」
「えっ!!」
 あたしは驚きすぎて、自転車のハンドルから手を放しそうになってしまった。
「今朝、うちの庭の木の上にいるのを見つけたんです」
「木の上?」
 ミルクは木には登らない。
「木の上で固まってて、降りて来られないみたいだったから……」
「まっ、まだ木の上にいるんですか⁉」
 降りられないなんて! あたしが今すぐ降ろすから。
「いえ、あのう、俺が一応もう降ろしました。……がんばって……」
 その子はさりげなく、スーパーのレジ袋を手首にひっかけた右手の甲を、左手の手のひらで隠した。
「え? もしかしてミルクが引っ掻いたとか? ごめんなさいあの、ミルクは、元気……」
 そこまで言うと涙が一気にぶわっと吹き出てきた。ミルクが、ミルクが無事だった。
「たぶん元気です。警戒して、エサとか食べてくれないんですけど、けがはないと思います」
「ほんとですか? このコですよ? 茶色なんです! 左目の上にしゅって墨で描いたみたいな、眉毛みたいな、なんか片方だけに眉毛があるみたいなちょっとマヌケな顔してて」
 あたしはすごい勢いで自転車のスタンドを下ろして固定すると、前カゴに入っているトートバッグの中から一枚、昨日プリントアウトしたミルクの写真入りポスターを取り出して、その子の目の前に両手で広げてみせた。
「そう、間違いありません、この猫です」
 そう言ってレジ袋のひっかかったままの右手で、ぷらっとポスターを指さした。
 無事だった。ミルクだよね。本当にミルクだよね。もう今さら間違いだなんて言わないでくれるよね。
 男の子の手首にかけられているスーパーのレジ袋が大きく揺れたから、自然にあたしの視線はそれに引き寄せられた。
 レジ袋が薄くて、中身が透けて見えてしまった。全部、猫の食糧の缶詰だった。
一般的な値段のものから、うちであげたことがないような超豪華食材を使ったプレミアムなものまで、実に十種類以上。
「えっ? それって?」
 あたしは驚いて思わずそのスーパーのレジ袋を指さしてしまった。
「ああ、これね。だってあの猫、どれなら食べてくれるのかわかんなくて。母親が心配して、猫飼ってる家からキャットフードもらってきてくれたんですよ。だけど、ドライのキャットフード食べないから、よっぽどふだん贅沢な食事してるのかな、って」
「いえ、そんなことは……」
 普通のならたまにあげるけど、うちもそこまでプレミアムな缶詰を単独であげたことはありません。ミルクがうちに来た、ミルク記念日の日には、プレミアムな缶詰をあげるけど、味をしめてそれしか食べなくなったらうちの家計を圧迫するから、いつものエサに混ぜ込んであげている。
 気持ちだけのミルク記念日。せっかくのごちそうの質をわざわざ落としたあれが、本当にミルクにとっておいしいのかどうかはわからないけど。
「どうもありがとうございます」
 あたしは丁寧に、深々と、もう膝にくっつきそうなくらい頭を下げた。
「すぐ、連れて帰りますよね? 僕、寄松利一(よりまつりいち)って言います」
「もちろんです。あたし、藤谷夏林です。恵が丘女子高校の三年です」
「わかります」
「え?」
「制服が恵が丘だな、って。姉……が恵が丘女子だったんですよ。もう何年も前に卒業しましたけど」
「そうだったんですか。あたしもその制服知ってますよ。青葉西高校ですよね。サッカーの強い」
 寄松くんは、少し、照れたように、困ったように、笑った。